長崎:爆心地の記憶を訪ねて(前編)

爆心地、「浦上」の思い出

転勤族だった父に伴い、小学校入学から3年半を長崎で過ごした。住んでいたのは、長崎駅から路面電車で北へ11駅目の岩屋橋。そこは「浦上」と呼ばれる、長崎市民にとって特別な地区で、昭和20年8月9日、午前11時2分、9600mの上空より、広島に続く原子力爆弾が投下された、悲しみと祈りの街であった。

数十年ぶりに思い出の街へ

小学校3年生の夏に引っ越して以来、一度も足を向けなかった浦上に、この夏、ふらりと一人で訪れてみたのは、昨年からの原発問題で、放射能に関して考えるうちに、幼いころ、この街で実体験した記憶がよみがえったからだ。

その記憶を呼び起こし、誰かに伝えたいという編集者の欲求と、懐かしい風景を辿りたいというノスタルジーに背中を押され、ある日、発作的に博多から白いかもめに乗り、長崎へ着いた。

長崎駅から岩屋橋へ

長崎の市内には、いまや懐かしい乗り物となった路面電車が現役で走っている。ちょっと前まで「どこまで乗っても100円」だったが、今は物価高騰につき120円に値上げされた。とは言っても1日乗り放題500円。坂道の多い長崎市内の移動には、最も便利な足である事は間違いない。

浦上川はコンクリートの土手に

岩屋橋で降りて、住んでいた近辺を目指す。予測していた通り、全く景色が変わっている。当時はビルはほとんどなく、父親が勤務していた鉄筋4階建てが、子供心にステイタスに思えていたものだ。しかし今や当時の面影は消え、とうとう暮らした家の場所はわからなかった。

 

泳いだり魚を取ったりした浦上川も、ムカデがいっぱいいた防空壕も、護岸工事でコンクリートの壁の中である。

浦上川を橋から見下ろす。かつてこの川に何千、何万という被爆者が水を求めておしよせ、やがて死体の林となった。今はこんなにのどかな風景だが、75年前、確かにこの地は放射能に焼かれたのだ。それを考えると、風の音さえ人の悲鳴に思えて来る。

長崎市立山里小学校

私が通った「山里小学校」は、城山小学校と並んで爆心地に近接した小学校である。

初めて訪れたときは、校門へ続く桜の花びら舞う石畳の坂道を見て、「きれいな学校だな」と幼心に思ったものだが、大人になるにつれ、当時の先生方の熱心すぎるほどの平和教育や、校内に点在する数々のモニュメントの意味がわかり、心の中で「戦争」という史実が重みを増していった。

原爆投下時は午前中で、たくさんの子供たちがこの校庭にいた。そのため多くの子供と教師は溶けてなくなり、残りも校舎内で焼かれて息絶えた。まさに、阿鼻叫喚図であったであろうと想像する。

その中で、再び学舎として立ち上がり、平和教育の先鋒として活動してきたこの小学校は、長崎の歴史を語る上で非常に重要な史跡のひとつと言えるだろう。

敷地内にある鎮魂の碑

校舎の脇にある「あの子らの碑」。通学していた頃は幼かったので、終戦記念日になると花が飾られ、みんなで歌う場所だという認識しかなかったが、実はこれは原爆で亡くなった生徒たちを弔う碑であり、永遠の平和を誓うシンボルである。

10年ほど前、当時は深く考えずに歌っていた「あの子」という歌を検索して涙した。この曲の歌詞は、被爆者の治療に一命を捧げた永井隆博士が、山里小学校のために寄贈したもので、明るくやさしいメロディとは裏腹に、我が子を焼かれた親の生き地獄が綴られている。子を持つ親なら、涙なくして聞けないだろう。

「あの子」

作詞 永井隆
作曲 木野普見雄  


壁に残った落書きの 幼い文字のあの子の名
呼んで秘かに耳澄ます ああ あの子が生きていたならば


運動会のスピーカー 聞こえる部屋に出してみる
テープ切ったるユニフォーム ああ あの子が生きていたならば


ついに帰らぬ面影と 知ってはいても夕焼けの
門(かど)に出てみる 葉鶏頭 ああ あの子が生きていたならば

この碑の前で、一人の女性と会った。「卒業生の方ですか」とお訪ねすると、「そうです、名古屋から来ました」との事。こうしてこの場所には、多くの子供たちが戻って来るのだろう。皆それぞれ成長し、思い出の中から生まれたそれぞれの思いを抱いて。

永井隆記念館

長崎市名誉市民第一号、医学博士、作家、敬虔なキリスト教信者……。永井隆氏を説明する言葉は数々あるが、幼い私にとっては「いっぱい本を読ませてくれた親切なおじちゃん」であった。

永井先生から学んだ多くのこと

通っていた山里小学校から子供の足で3分くらいの所に「如己堂(にょこどう)」とみんなが呼んでいた小さな図書館があった。そこへ行けば無料で本が読めるので、本の虫だった私は毎日のように通ったものだ。そこが現在の「永井隆記念館」であり、隣にあるのが永井一家の住処であった如己堂である。

永井博士は放射線科の医師であったが、職業による被曝で白血病になり、余命宣告を受けた後に原爆を受けた。しかし満身創痍をおして被爆者の治療に当たり、その後も奇跡的に生き続けながら平和活動に貢献したという。

焼け野原の長崎市で、肉も骨もボロボロになりながら、戦争の悲劇を世に晒す本を書き、被爆者の救済を続けた。それは信仰に支えられた強さである。

クリスチャンとしての信念

永井博士がクリスチャンになったのは、大学時代の下宿先が信者であったのがきっかけで、その家の娘さんである緑さんは、後の夫人である。しかし緑さんは爆心地に近い自宅で被爆。長崎大学の研究室から、そのまま治療に駆け回っていた博士が家に戻ったのは3日後で、台所には骨のかけらになった緑さんと焼けたロザリオだけが残っていたという。

この大きな悲劇の中の、たったひとつの救いは子供たちが疎開していたことで、やがて父子三人は、市民が建ててくれた二畳一間の如己堂で、つつましやかな生活を営み始めた。

「私の寝ている如己堂は、二畳一間の家である。私の寝台の横に畳が一枚敷いてあるだけ、そこが誠一とカヤノの住居である。」

「神の御栄のために私はうれしくこの家に入った。故里遠く、旅に病むものにとって、この浦上の里人が皆己のごとくに私を愛してくださるのがありがたく、この家を如己堂と名づけ、絶えず感謝の祈りをささげている。」

(永井 隆著「この子を残して」より)

ちなみに「如己堂」とは、「己を愛するが如く他を愛せよ」という、聖書の言葉からである。私は信仰している宗教はないが、形のないものを敬愛し尽くすという行為は、人を正しく導くものであると理解できる。

>>後編へ続きます。