長崎:爆心地の記憶を訪ねて(後編)

平和公園と爆心地

如己堂から5分ほど歩くと、平和公園がある。私が日暮れまで走りまわった思い出の公園だ。総面積、実に18.6ヘクタール。よくテレビで「平和記念公園」と言われているが、本当の名前は「平和公園」である。

祈りと悲しみの象徴として

敷地内には戦争時、旧長崎刑務所浦上刑務支所があり、原爆により刑務所内にいた計134名全員が即死した。それほど爆心地に近いのだ。いまは建物の土台だけが残っていて、追悼の碑が建てられている。

写真の、有名な平和祈念像。これは何度スケッチを描いたかわからない。小学校の写生の時間は、たいていここへお弁当を持ってやってきては、並んで像を描いたものだ。

長崎の名物「チリンチリンアイス」。鈴を鳴らして売り歩くためか、ずっとこの名で呼ばれており、売り子はおばちゃんと決まっている。私が子供のころは5円だった記憶があるが、今は200円になっていた。味は水っぽく、アイスクリームよりはアイスクリンといった風だ。たまにおばちゃんが機嫌がいいときは、バラの形に作ってくれるのが嬉しかった。

公園の外では100円だった(笑)場所代の関係だろうか。

噴水の碑に刻まれた言葉

公園を南西に進むと、噴水がある。ここに刻まれた石碑の言葉は、一生忘れることはないだろう。

のどが乾いてたまりませんでした。 

水には油のようなものが一面に浮いていました。

どうしても水が欲しくて 

とうとう油の浮いたまま飲みました。

この人はいま生きているだろうか。生きていて、美味しい水を飲んでいて欲しい。豊かにあふれる噴水の水を見ながら、心からそう思うのだ。

ひっそりと、爆心地にたたずむ

やがて公園が途切れ、柳の揺れる小さな川沿いに少し歩くと、ぽっかりと静かな広場があらわれる。広場の片隅には、ひっそりと塔が立つ。ここが、まさに原爆が投下された、その場所である。

正確には、上空500mで破裂したのだそうだ。広島に落とされたウラン型ではなく、プルトニウム型であった。原発事故の報道で、それらの言葉を聞くと体が震えあがるのは、きっと原爆に結び付けて考えてしまうからだろう。それは、あながち決して間違いではない。

長崎原爆資料館

爆心地を見下ろすように、丘の上に建つ「原爆資料館」。私が住んでいた頃には、こんな立派な建物はなかったように思う。無機的なコンクリートの壁の向こうに、たぶんヘビーな展示があると恐れを抱きつつ、今回の旅の答えを求めるために足を踏み入れた。

レジャー気分で訪れる施設ではない

はたして館内を見て回る間に、2回休憩が必要だった。昔に比べて生々しさが減ったとは言うが、それでも展示の内容が淡々と、それでいて事実をはっきりと曝け出すものであっただけに、感情が高ぶりすぎてしまい、座り込んでしまったのだ。

個人的な思い入れの強さもあるだろうが、気軽なレジャーや観光で訪れるには、ちょっと不向きな場所ではないかと思える。

長崎に投下された「ファットマン」

館内の展示で最も目を引くものは、ファットマンの模型だろう。ファニーなその名とは裏腹に、TNT火薬換算で22,000t(22kt)相当、広島に投下された「リトルボーイ」の1.5倍のパワーを持つ。

このことから、一発目はウラン燃料のBoy、二発目はさらに強力なプルトニウムのManと、ステップを踏んで投下が行われたとも言われている。アメリカは決して実験ではないと主張しているが、その後に取られた膨大なデータを考えれば、結果的には世界で唯一、市街とにおける原子力実験の貴重な実験となったことは間違いない。

これが、内部。外国人の家族連れが、この前でピースサインで写真を撮っていて、見るだけでむかむかした。しかし日本人であってもすべての人が、この装置の本当の意味がわかるかと言えばそうではない。戦争が風化するにつれ、その比率はどんどん増していくのだろう。切ない気持ちになった。

盆地である長崎の地形が被害を縮小

ちなみにこのファットマンは、当初西日本の交通の要所であった北九州市に投下される予定であった。しかし条件が悪いため数度の視察の上、長崎に座標を変更。浦上地区が悲劇の舞台となった。

長崎市は山で囲まれた地形のため、比較的エネルギーの拡散が抑えられたという。もしも平野であったなら、いったいどうなっていたのか。広島からわずか3日。日本政府が頭を突き合わせて対策を練る暇もないうちに、悪条件下を押して二回目の投下を決行した、アメリカ軍の思惑は如何に。今となってはもう、真実を知る者は皆墓石の下である。

被爆者が当時を語る手記のパネルより

「妹が家の下敷きに」

二歳になる妹が家の下敷きになって、泣き狂っていた。

…ハリはびくともしなかった。
…水兵さんも「これはだめだ」と言って行ってしまった。

向こうから矢のように走ってくる人が目についた。
―女の人だ。はだからしい。むらさき色の体…

「おかアちゃァん……」

私たちは、もうこれで大丈夫、と思った。
隣のおじさんが力んでみたがハリは動かない。

「あきらめんば…仕方のなか…」と、
申し訳なさそうに言って、向こうへ行ってしまった。

火がすぐ近くで燃え上がった。

お母さんの顔が、真青に変った。
お母さんは小さな妹を見おろしていた。
妹の小さい目も下から見上げていた。

お母さんは、ズウッと目を動かして、ハリの重なりかたを見渡した。
ハリの一ヵ所に右肩をあてた。

「ウウウ……」と、全身に力をこめた。

バリバリバリッ…妹の足がはずれた。
お母さんはそのままヘタヘタと腰をおろしてしまった。

お母さんはお昼のナスを畑でもいでいたとき、
ばくだんにやられたのであった。
髪の毛は赤く短くちぢれて切れていた。
体じゅうの皮はジュルジュルになっていた。

さっきハリをかついだ右肩は皮がペロリとはげて、
肉があらわれ、赤い血がしきりに、にじみ出ていた。

やがて…お母さんは苦しみはじめ
もだえもだえて、その夜、死にました。

萩野美智子(被爆当時10歳)

 

「いまわのきわに」

●8月9日 長崎原爆の日

我が家に到り着きたるは深更なり
月の下ひっそり倒れかさなっている下か

●10日 路傍に妻と二児を発見す

重症の妻より子の最後をきく(4歳と一歳)
わらうことをおぼえちぶさにいまわもほほえみ
すべなし地に置けば子にむらがる蠅
臨終(いまわ)木の枝を口にうまかばいさときびばい

●長男ついに壕中に死す(中学一年)

炎天、子のいまわの水をさがしにゆく
母のそばまではうてでてわろうてこときれて
この世の一夜を母のそばに月がさしている顔
外には二つ、壕の中にも月さしてくるなきがら

●11日 みずから木を組み立て子を焼く

とんぼうとまらせて三つのなきがらがきょうだい
ほのお、兄をなかによりそうて火になる

●12日 早暁(そうぎょう)、骨を拾う

あさぎり兄弟よりそうた形(なり)の骨で
あわれ七ヶ月の命の花びらのような骨かな

●13日 妻死す(36歳)

ふところにしてトマト一つはヒロちゃんへこときれる

●15日 妻を焼く、終戦の詔(みことのり)下る

なにもかもなくした手に四まいの爆死証明
夏草身をおこしては妻を焼く火を継ぐ
降伏のみことのり、妻をやく火いまぞ熾(さか)りつ

松尾あつゆき

改めて不戦の志をかたくする

私はここで、泣き出してしまい、気持ちがおさまるのにずいぶんの時間を要した。生きていれば必ず死は訪れるものであるし、身内を見送るのも人の務めだと思う。しかし、このような死は受け入れられない。理不尽である。

今もこの核弾頭が、世界の国々で保有されている。日本は核を持たないことを国として明言しているが、もしも将来、核戦争が再び起こったら、また焼かれる国になってしまうのだろうか。(2020年現在、日本政府は唯一の被爆国でありながら「核兵器禁止条約」に反対の姿勢を示している)

アメリカとロシアに集中する、このとんでもない量の核兵器が使われてしまったら、地球の機能は壊滅的なダメージを受けるだろう。そして何千年も、いやもっと先まで、人の住めない星になってしまうだろう。人類は時代にバトンを渡す役割を放棄するのだろうか。

最後に:ひとりごと

資料館を出て、いっぱいに膨らんだ気持を持て余しながら、最寄りの電停まで歩いた。「戦争はいけない」「戦争は悪いこと」みんな頭ではわかっている。でも、理屈の上での平和教育など、実はそれほど身にしみていない。私だって長崎にいた頃、先生が泣きながら教えてくれた戦争の話を、今になってぼんやりと思いだし、こうやってピントを合わせてようやく鮮明になってきたくらいだ。

私は短い間だったが、縁あって長崎に住み、たくさんの事を学んだ。それは畑に撒かれた種のように、記憶の中に深くもぐりこんでいたが、いつしか芽が出て葉が茂り、大きな木をめざして成長を続けている。毎年、夏になるたび、そして折に触れるたび、繰り返し長崎の話を語ってきた。きっとそれは、この先も一生続けていくだろう。

私は被爆者でも被爆二世でもないが、いかに先の戦争が愚かで人々を傷つけるものであったか、伝えることはできると思っている。人と人がそうであるように、国と国も闘うより友好を結んだ方がメリットは大きいはずだ。このページはそういう思いがあって、作成した。一人でも多くの方に目にしていただき、戦争や平和や原子力について考えていただければ、何よりうれしい。

どうか長崎が人類の歴史上、最後の被爆地となりますように。